聖林寺について
フェノロサも見惚れた
国宝
- 木心乾漆像
- 奈良時代作
760年代に東大寺の造仏所で造られ、その願主は智努王(天武天皇の孫)とする説が有力です。
かつては四天王に守られ、前立観音の他、左右に多くの仏像が並び立ち、背面には薬師如来一万体が描かれた板絵がある荘厳の中にまつられてきました。
宝相華唐草の光背(奈良国立博物館に寄託中)は、長い年月により大破していますが、華やかで見事なものであったと想像されます。
均整のとれた仏身、豊満な顔立ち、量感のある上半身、優婉な纏衣の美しさ、微妙な変化をみせる指先等、ミロのヴィーナスとも比較される仏像彫刻の優作です。
十一面観音は、もとは三輪山の神宮寺の一つ「大御輪寺(だいごりんじ)」の仏さまでした。大御輪寺は大神神社の最も古い神宮寺として奈良時代中頃に設けられ、十一面観音はその本尊として祀られてきました。
明治政府の神仏分離令による廃仏毀釈を免れるため、慶応4年(1868)5月16日、大御輪寺と親交の深かった聖林寺に移されたといわれています。
当時の住職は高僧 大心(聖林寺再興七世)でした。三輪流神道の正嫡であり、東大寺戒壇院の長老であった大心以外にこの仏像を正式に拝める僧はなかったのでしょう。
明治30年(1897)、旧国宝制度が成立すると国宝に指定され、昭和26年(1951)6月の新制度に移管された際には、第1回の国宝に選ばれました。この時指定された国宝仏は、わずかに24でした。
明治20年(1887)、アメリカの哲学者フェノロサによって秘仏の禁が解かれ、人々の前にその美しい姿を初めて現しました。
フェノロサはその美しさにたいそう驚き、門前から大和盆地を指して、「この界隈にどれ程の素封家がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでない」と述べたと伝えられています。
本堂脇の厨子は、十一面観音のためにフェノロサらが寄進したもの。内部に滑車を付け、火事などいざというときに外に運び出せるよう可動式になっており、文化財保護施設の魅とも言うべき工夫がなされています。
- フェノロサとは
- アメリカの哲学者アーネスト・フェノロサは、明治11年(1878)に日本政府の要請で来日。古社寺の調査員として宝物調査を行いました。当時の仏像の多くは、廃仏毀釈によって壊滅的な被害を受けていましたが、フェノロサは日本古来の文化財の価値を高く評価し、保護に努めました。